織田信長

桶狭間の戦いの後、今川氏は三河国松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる。これを機に信長は今川氏の支配から独立した徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる。両者は同盟を結んで互いに背後を固めた(いわゆる清洲同盟)。永禄6年(1563年)、美濃攻略のため本拠を小牧山城に移す。

永禄8年(1565年)、信長は、犬山城の小田信清を下し、ついに尾張統一を達成した。さらに、甲斐国戦国大名武田信玄と領国の境界を接することになったため、同盟を結ぶこととし、同年11月に信玄の四男・勝頼に対して信長の養女(龍勝寺殿)を娶らせた。

 


斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏(一色氏)との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃国に出兵し勝利する(森部の戦い)。同じ頃には北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。

一方、中央では、永禄8年(1565年)5月、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の三好義継・三好三人衆・松永久通らが、対立を深めていた将軍・足利義輝を殺害した(永禄の変)。義輝の弟の足利義昭(一乗院覚慶、足利義秋)は、松永久秀の保護を得ており、殺害を免れた。義昭は大和国(現在の奈良県)から脱出し、近江国の和田、後に同国の矢島を拠点として諸大名に上洛への協力を求めた。

これを受けて、信長も同年12月には細川藤孝に書状を送り、義昭上洛に協力する旨を約束した。同じ年には、至治の世に現れる霊獣「麒麟」を意味する「麒麟」字型の花押を使い始めている。また、義昭は上洛の障害を排除するため、信長と美濃斎藤氏との停戦を実現させた。こうして信長が義昭の供奉として上洛する作戦が永禄9年8月には実行される予定であった。

ところが、永禄9年(1566年)8月、信長は領国秩序の維持を優先して美濃斎藤氏との戦闘を再開する。結果、義昭は矢島から若狭国まで撤退を余儀なくされ、信長もまた、河野の島で大敗を喫してしまう。「天下之嘲弄」を受ける屈辱を味わった信長は、名誉回復のため、美濃斎藤氏の脅威を排除し、義昭の上洛を実現させることを目指さなければならなくなる。

そして、永禄9年(1566年)、信長は加治田城主・佐藤忠能加治田衆を味方にして中濃の諸城を手に入れた(堂洞合戦、関・加治田合戦、中濃攻略戦)。さらに西美濃三人衆(稲葉良通氏家直元安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興伊勢国長島に敗走させ、美濃国平定を進めた(稲葉山城の戦い)。このとき、井ノ口を岐阜と改称した(『信長公記』)

同年11月には印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめている。この印判の「天下」の意味は、日本全国を指すものではなく、五畿内を意味すると考えられており、室町幕府再興の意志を込めたものであった(信長の政権構想)。11月9日には、正規町天皇が信長を「古今無双の名将」と褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王元服費用の拠出を求めたが、信長は丁重に「まずもって心得存じ候(考えておきます)」と