ランボルギーニ

ランボルギーニの社名は、創業者のフェルッチオ氏の名前から取られたモノなのです。フェルッチオ氏は、第二次世界大戦直後のイタリア国内で、物資運搬用のトラックが足りていないことに気が付きます。そこで、軍が卸すトラックを改造し、販売。この事業が大成功を納め、フェルッチオ氏は大きな財産を築きました。

創業者であるフェルッチオ・ランボルギーニは、第二次世界大戦後、イタリアにトラックが不足していることに目を付け[1]、軍が放出するトラックを民生向けに改造し販売することで富を得た。大戦中、ロドス島にて兵器のメンテナンスに当たっていた彼の経験が活かされるかたちとなった。1947年、当時から自動車好きであった彼は、これを元手に小さなチューニングショップを開いた。

1948年、彼は友人と共にミッレミリアに参戦した。車両はフィアット・トポリーノで自作のOHVヘッドが載せられていた。しかし途中で友人が運転を誤り、レストランに突っ込んでしまう。この際、彼は友人と共に車外に投げ出され、大ケガを負った。後に彼がレース界から距離を置くようになったのは、この経験が一因であるとされている。

その後、彼はトラックに続いてトラクターの自社開発に取り組み、1949年にランボルギーニ・トラットリーチSpAを設立した。当初はただ同然で手に入れた軍放出車両のモーリスエンジンを用いた一般的なものであったが、後に自ら開発した排気熱で軽油を気化するイン・パボリザトーレというシステムを使って高性能なトラクターを作った。これは当時高価であったガソリンをエンジンの始動と暖気に使うだけで済み、後は安価な軽油で充分に動かせたため、大ヒットに繋がった。また1960年にはランボルギーニ・ブルチアトーリSpAを設立し、ボイラーとエアコンの製造販売を手掛け、これも成功を収めた。

巨万の財を築いた彼はエキゾチックカーを収集するようになる。しかし、どの車も暑すぎたり、スピードが十分でなかったり、狭すぎたりしたため、フェルッチオを満足させるものではなかった。のちにエキゾチックカーの生産に乗り出したフェルッチオは、「助手席に座るレディのメイクアップが(汗で)落ちないような快適な車を作りたい」と語ったという。やがて彼は富の象徴、フェラーリのオーナーとなるが、当時のフェラーリにのクラッチに決定的欠陥があった。所有するフェラーリの度重なるクラッチ故障に頭を痛めた彼は、自社のトラクター工場でフェラーリを修理することを思いつく。いざクラッチを分解してみると、使われていたのはなんと自社のトラクター用パーツと同型のボーグ&ベック製のクラッチ板であり、しかも全く同一のパーツにフェラーリはトラクター用の十倍の値段を付けていた。

元々は優秀なメカニックでもあった彼は、クラッチ修理と同時にフェラーリに装着されていたウェーバー製のダウンドラフト型キャブレターをサイドドラフト型の物に改め、シリンダーヘッドをオリジナルのSOHCから当時は市販のフェラーリに採用されていなかったDOHCに改造した。完成した車は公道でのテスト走行中の新型フェラーリを「カモ」にできるほど速かったという。

既存のエキゾチックカーに少なからず不満を抱いていた彼は、これがきっかけで自動車ビジネスに乗り出す決意をしたといわれる。前述のフェラーリのパーツに見られるような高額な価格設定に触れ、「この商売は儲かる」と踏んでもいた。フェルッチオはこのとき、有望なビジネスモデルとして高級車業界を見ており、スポーツカーへの愛情とその財力を背景にアウトモービリの創設を決意した。

フェラーリ

フェラーリ(Ferrari N.V.)は、イタリア、モデナ県マネラネッロに本社を置く高級自動車メーカー(高性能スポーツカー)。

 


イタリアの元レーシングドライバー兼レーシングチームオーナーのエンツォ・フェラーリによって、イタリア北部のモデナ近郊に1947年に設立されて以来、主にレーシングカーと、高級スポーツカーのみを製造している自動車メーカー[3]である(ちなみに設立以来4ドアセダンを作ったことはない)。

また、F1世界選手権等のモータースポーツコンストラクターでもあり、同選手権唯一1950年の開幕より参戦を続けるコンストラクターでもある。

F1をはじめ、FIA世界耐久選手権ル・マン24時間レース、ミッレミリアやタルガ・フローリオなど数々のレースで活躍し、数々の伝説を残していることもあり、イタリアのみならず世界的にも高い人気とブランドイメージを持つ。なお、現在フェラーリ社内で市販車部門とレーシングカー部門は別部門とされているが、両部門はマーケティングや人的交流などで密接に繋がっている。

設立以来独立した運営を続けていたが、1969年にアニェッリ家率いるフィアット・グループの事実上傘下に入り、1988年のエンツォの死により大規模な株式の移動があり、さらに2016年には(FCA)から離脱独立した[4]。しかし、その後もFCAの大株主のアニェッリ家と、その持ち株会社のエクソールが経営に影響力を持ち続けており、FCAの影響を大きく受ける子会社的存在である。フィアット・クライスラー・オートモービルズ

織田信長

天文3年(1534年)5月、尾張国戦国大名織田信秀と土田政久の娘の間に嫡男として誕生。生まれた場所については勝帳城、那古野城、および古渡城の3説に分かれるが、勝幡城であるとする見解が有力である。幼名は吉法師(きっぽうし)。

信長の生まれた「弾正忠家」は、尾張国の下四郡の守護代であった織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行という家柄であった。当時、尾張国では、守護である斯波氏の力はすでに衰えており、守護代織田氏も分裂していたのである。こうした状況下で、信長の父である信秀は、守護代・織田達勝らの支援を得て、今川氏豊から那古野城を奪う。そして、信秀は尾張国内において勢力を急拡大させていた。

 


信長は、早くに信秀から那古野城を譲られ、城主となっている。『信長公記』によれば、信長には奇天烈な行動が多く、周囲から大うつけと呼ばれたという。なお、人質となっていた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期の頃に知り合っていたとも言われるが、可能性としては否定できないものの、そのことを裏付ける史料はない。

天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、三郎信長と称する。天文16年(1547年)には今川方との小競り合いにおいて初陣を果たし、天文18年には尾張国支配の政務にも関わるようになった。

天文17年(1548年)あるいは天文18年(1549年)頃、父・信秀と敵対していた美濃国戦国大名斎藤道三との和睦が成立すると、その証として道三の娘・濃姫と信長の間で政略結婚が交わされた。

斎藤道三の娘と結婚したことで、信長は織田弾正忠家の継承者となる可能性が高くなった。そして、おそらく天文21年(1552年)3月に父・信秀が死去したため、家督を継ぐこととなる。信長は、家督継承を機に「上総守信長」を称するようになる(のち「上総介信長」に変更)。

 


永禄3年(1560年)5月、今川義元尾張国へ侵攻する。駿河遠江に加えて三河国をも支配する今川氏の軍勢は、1万人とも4万5千人とも号する大軍であった。織田軍はこれに対して防戦したがその兵力は数千人程度であった。今川軍は、松平元康(後の徳川家康)が指揮を執る三河勢を先鋒として、織田軍の城砦に対する攻撃を行った。

信長は静寂を保っていたが、永禄3年(1560年)5月19日午後一時、幸若盛『敦盛』を舞った後、出陣した。信長は今川軍の陣中に強襲をかけ、義元を討ち取った(桶狭間の戦い)。

織田信長

桶狭間の戦いの後、今川氏は三河国松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる。これを機に信長は今川氏の支配から独立した徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる。両者は同盟を結んで互いに背後を固めた(いわゆる清洲同盟)。永禄6年(1563年)、美濃攻略のため本拠を小牧山城に移す。

永禄8年(1565年)、信長は、犬山城の小田信清を下し、ついに尾張統一を達成した。さらに、甲斐国戦国大名武田信玄と領国の境界を接することになったため、同盟を結ぶこととし、同年11月に信玄の四男・勝頼に対して信長の養女(龍勝寺殿)を娶らせた。

 


斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏(一色氏)との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃国に出兵し勝利する(森部の戦い)。同じ頃には北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。

一方、中央では、永禄8年(1565年)5月、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の三好義継・三好三人衆・松永久通らが、対立を深めていた将軍・足利義輝を殺害した(永禄の変)。義輝の弟の足利義昭(一乗院覚慶、足利義秋)は、松永久秀の保護を得ており、殺害を免れた。義昭は大和国(現在の奈良県)から脱出し、近江国の和田、後に同国の矢島を拠点として諸大名に上洛への協力を求めた。

これを受けて、信長も同年12月には細川藤孝に書状を送り、義昭上洛に協力する旨を約束した。同じ年には、至治の世に現れる霊獣「麒麟」を意味する「麒麟」字型の花押を使い始めている。また、義昭は上洛の障害を排除するため、信長と美濃斎藤氏との停戦を実現させた。こうして信長が義昭の供奉として上洛する作戦が永禄9年8月には実行される予定であった。

ところが、永禄9年(1566年)8月、信長は領国秩序の維持を優先して美濃斎藤氏との戦闘を再開する。結果、義昭は矢島から若狭国まで撤退を余儀なくされ、信長もまた、河野の島で大敗を喫してしまう。「天下之嘲弄」を受ける屈辱を味わった信長は、名誉回復のため、美濃斎藤氏の脅威を排除し、義昭の上洛を実現させることを目指さなければならなくなる。

そして、永禄9年(1566年)、信長は加治田城主・佐藤忠能加治田衆を味方にして中濃の諸城を手に入れた(堂洞合戦、関・加治田合戦、中濃攻略戦)。さらに西美濃三人衆(稲葉良通氏家直元安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興伊勢国長島に敗走させ、美濃国平定を進めた(稲葉山城の戦い)。このとき、井ノ口を岐阜と改称した(『信長公記』)

同年11月には印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめている。この印判の「天下」の意味は、日本全国を指すものではなく、五畿内を意味すると考えられており、室町幕府再興の意志を込めたものであった(信長の政権構想)。11月9日には、正規町天皇が信長を「古今無双の名将」と褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王元服費用の拠出を求めたが、信長は丁重に「まずもって心得存じ候(考えておきます)」と

ベンツ

メルセデス・ベンツ(独: Mercedes-Benzは、ドイツのダイムラーが所有する乗用車、商用車のブランドである。

メルセデス・ベンツ

Mercedes-Benz

現行Sクラス(W222)

メルセデス」とは、1899年当時、ダイムラー車のディーラー(販売代理店)を経営していたオーストリア=ハンガリー帝国の領事でありユダヤ系ドイツ人の富豪であるエミール・イェリネック(de:Emil Jellinek)の娘(de:Mercédès Jellinek)の名前である。イェリネックは自らが販売する自動車に、「ダイムラー」という硬い響きを避け当時流行していたスペイン風の響きを持つ名を冠した。この「メルセデス」ブランドは非常に有名になり、ダイムラーは1902年、「メルセデス」を商標登録した。

欧米では一般に「メルセデス」「メルセデス・ベンツ」と呼ばれるのに対して、日本では「ベンツ」と呼ばれることが多い。ただしメルセデス・ベンツ日本は広告で「メルセデス・ベンツ」と表記し、モータースポーツ記事の一部はチーム名に含まれる「メルセデス」を用いる。自動車評論家の徳大寺有恒や作家で評論家の五木寛之らの著書、一部自動車雑誌などでは、「メルツェデス」という表記を用いていることがある。

筆頭株主浙江吉利控股集団のオーナーで富豪の李書福氏で、今回のBAICによる出資で、中国勢のダイムラー持ち分比率は約15%。

1926年に、共にほとんど同時期に設立された世界最古の自動車会社であるベンツ&シー・ライニッシェ・ガスモトーレン・ファブリーク(1883年-1926年)とダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト(1890年-1926年)、両社の1926年の合併により正式に「メルセデス・ベンツ」がスタートした。以降社名はダイムラー・ベンツ(1926年-1998年)、ダイムラー・クライスラー(1998年-2007年)、現在はダイムラー(2007年-)と変更されているがブランド名の変更はない。現在ドイツ、シュトゥットガルトを拠点に、乗用車と商用車の製造、販売を「メルセデス・ベンツ」で展開している。

日本では以前に輸入元であったヤナセの営業方針や宣伝などから、現在も高級車専門メーカーとの誤認が少なくないが、実際は欧州を中心に比較的安価な車種も多く製造している。乗用車のみならずバンやタクシー、大型バスやトラック、ダンプカーなどの営業車・商用車・各種作業車、救急車などの特殊な車両、軍用車両まで極めて幅広い種別の自動車を扱い、かつては通勤電車などの鉄道車両もグループ内で製造するなど、欧米ではボルボルノーなどと同様の自動車総合メーカーとして認知されている。

Sクラスをはじめとする高級セダンやSUVは、高額所得者、政治家、セレブリティーが嗜好するなど肯定的なイメージがあるとして知られる一方で、暴力団や威圧的で怖い人が乗る車、成金趣味の象徴でビバリーヒルズの歯医者の車、古今東西の独裁者達の愛車という否定的なイメージも存在する。冷戦時代は外交官の公用車としても普及し、西側の自動車会社にもかかわらず東側諸国の外交官の利用も多く、「ペルソナ・ノン・グラータ向けの車」と揶揄されることもあった。

日本では300万円台前半から販売されており、同クラスの日本車に比して高価格であるが、欧州ではタクシー用のEクラスをはじめ各車種で日本では発売されていないような廉価なグレードも存在し、多様な客層が利用する車として知られている。

2006年の販売台数クラス別世界ランキングで、1位は634~1530万円のEクラス、2位は1065〜3040万円のSクラス、3位は400〜1250万円のCクラス、4位は300〜385万円のBクラスである。日本と世界では販売価格が異なるので留意する必要がある。

カー・アンド・ドライバー誌が東京都港区にある国道246号・青山通りで行なっている車種別の通行数ランキングでは、トヨタ・カローラなどの日本メーカーの大衆車より多く、社有車・社用車としての登録が多いEクラスが1位の常連になっており、登録、使用本拠の地域的偏在も大きい。

マイバッハ

1997年、ダイムラー・ベンツ(当時)は東京モーターショーに「メルセデス・ベンツマイバッハ」という名称のSクラスをベースとしたコンセプトカーを出展し、「マイバッハ」を復活させることを決定した。

2002年に、新設された「マイバッハ」ブランドから、ショートホイールベースの「57」とロングホイールベースの「62」が登場。57、62のモデル名は後述のようにそれぞれ車体全長を表しており、57の全長は5,723mm、62のそれは6,165mmである。これらのモデルには、高度な技術と厳選した素材が使用されており、車体剛性の高さと、それによる安定性やNVH性能は、既存のSクラスをはるかに上回る。装備や仕様はオーダーメイドであり、内装の化粧板を大理石にすることも可能で、市販されているものとしては最も高額な乗用車のひとつであった。

搭載されるM285型エンジンはSOHCの水冷V型12気筒で、各バンクにターボチャージャーととインタークーラーを装備するツインターボである。5513ccの排気量から、550ps (405kW)/5250rpmの最高出力と、2300-3000rpmの範囲で91.8kgm (900nm)の最大トルクを発揮する。

駆動方式は、大容量の5速ATを介した後輪駆動(FR/RWD)である。

2005年のジュネーヴ・ショーにて、よりパワフルなエンジンと専用内外装を持ったスペシャルモデル「57S」と「62S」が発表・追加された。搭載されるエンジンは排気量を5980ccに拡大したV12 SOHCツインターボで612ps (450kW)/4800rpmと1000Nm/2000rpmを発生する。

2007年11月の中東国際オートショーにて62Sをベースとした「62 Landaulet(62 ランドレー)」を発表。このモデルは、1920年代や1930年代によく見られた、後部座席側のみのルーフを開閉可能なソフトトップにした専用のランドーレット・ボディが与えられ、室内前後は電動パーティションによって仕切ることができる。翌2008年1月に限定で生産されることが決定した。なお価格はベースになった「62S」の倍以上であった。

2006年には、2ドアクーペの「マイバッハ・エクセレロ」を発表。しかしこれはコンセプトカーであり、市販化はされなかった。なお競合ブランドであるロールス・ロイスベントレーが、ドライバーズカーであるクーペやコンバーチブルを豊富に揃えていることとは対照的に、マイバッハはショーファードリヴン(運転は専属の運転手が行う)を前提としたリムジンみであった。

2009年のジュネーヴ・ショーにて、戦前のモデルと同じ「ツェッペリン」の名を冠したモデルを追加。このモデルは世界限定100台で57と62に用意され、専用内外装と最高出力を640ps (470kW)に引き上げたエンジンが搭載された。

2011年11月に、ダイムラーは2013年までにマイバッハブランドを廃止すると発表[1]。約10年間にわたってBMW傘下のロールスロイスフォルクスワーゲン傘下のベントレーに匹敵する超高級車の生産に力を注いだものの、思うような利益が出せなかったという。

東京モーターショーでの初公開車両でもみられるとおり、当初は「メルセデス・ベンツマイバッハ」という名称を用い、メルセデス・ベンツ・ブランドの最上位車種とする予定だった。公開されたコンセプトカーにも、メルセデス・ベンツの「スリーポインテッドスター」が装着されていた。しかし当時の経営陣は「Sクラスこそが最高のメルセデスである」というマーケティング上の戦略を優先し、「マイバッハ」を独立したブランドとして復活させることに決定した。なおこの決定に最後まで反対し、「予定通りメルセデス・ベンツマイバッハとして販売すべき。世界的知名度のないマイバッハではなく、メルセデス・ベンツのネームバリューを活用して展開すべき」と主張したのは、現ダイムラーAG代表のディーター・ツェッチェ(英語版)である。

なお、ヴィルヘルム・マイバッハは、ゴットリープ・ダイムラーと共に世界初の4輪ガソリン自動車を発明した人物で、ダイムラー、カール・ベンツと並び、ガソリン自動車の発明者の一人に数えられる。

初代・新マイバッハのモデル名である「62」や「57」という2桁の数字は、これら車種の想定顧客である富裕層になじみのあるヨット(帆走艇や「プレジャーボート」など)と同様、その全長に基づく。実寸は57が5,723 mm、62が6,165 mm となる。

なお、後述する2代目モデルは、ベースとなったSクラスと同様、エンジン排気量のおおよその数値の上3桁の数字で示されている。

ブガッティ

ブガッティ(Bugatti)は、

1909年、イタリア出身の自動車技術者、エットーレ・ブガッティがアルザス(当時ドイツ領)に設立した自動車会社。1940年代初頭まで主に高性能スポーツカーやレースカーを製造していた。

1998年にブガッティ・アウトモビリSpAからフォルクスワーゲンAGが商標権を買い上げ、ブガッティ・オトモビルを設立。フランスのアルザスに本社を置いた。

ブガッティ・ヴェイロン(Veyron 16.4 )は、ブガッティ・オトモビルが2005年から2015年にかけて製造していたスーパーカーである。正式車名の「16.4」はV8気筒×2のW16気筒+4ターボチャージャーであることを表している。ミッドシップマウントされた8.0Lの排気量を持つW型16気筒エンジンは4基のターボチャージャーにより過給され、1001PSを発生する。厳しい冷却条件を満たすため冷却水は50リットル、エンジンオイルは23リットル必要である。製造時、このエンジンはすべて8時間のベンチテストにかけられた後、6,500rpmのレッドラインで数分間回される。[要出典]

四輪駆動で、発進から100km/hまで2.5秒で加速し、200km/hまでは7.5秒、300km/hまでは16.7秒、0-200mは6.6秒(到達速度188km/h、カーグラフィック誌計測)、0-400mは9.95秒(到達速度235km/h、同誌計測)、そして最高速度は407km/hに達するとメーカーより発表されている。ただし最高速に達するまでには11km、そこからのブレーキングに500mが必要なため、最高速を出すには最低11.5kmの直線が必要になる。

ブガッティ・シロン(Chiron)とは、ブガッティ・オトモビルが2016年から全世界500台限定で製造しているスーパーカーである。エンジン形式(パワートレイン)はヴェイロンと同じだが、出力、トルク共に大幅に向上。ブガッティ・ヴェイロンの1001馬力に対してシロンは1500馬力に到達。シロンのエクステリアは、戦前のブガッティのアイコンを現代風にアレンジしながらも、空力や1500psのエンジンが発する熱を効果的に逃がすための技術に裏付けされたデザインが施されている。

2014年、福井県輸入車ディーラー「あおい商事」(AOIホールディングス)がブガッティ・オートモビルズと代理店契約を締結し、日本でのブガッティブランドの正規総代理店として「Bugatti Japan株式会社」を設立。2015年11月11日東京・南青山にライフスタイル・ブティックを併設したショールーム「ブガッティ東京」をオープンした。しかし2018年に販売を終了した。跡地は同じAOIホールディングスのグループ会社「グランムーヴジャパン株式会社」がショールームおよび会員制ワインバーとして運用している。

2020年2月1日、「SKY GROUP」(モトーレンニイガタ)がブガッティ・オートモビルズと代理店契約を締結し、東京・南麻布にてショールーム「ブガッティ東京」をオープンした。